2022年の公演に向けて(公演延期については前回の記事をお読み下さい)
「 受難劇2022(仙台)によせて」
『瞬間』気づき(恵み)と誘惑(悪魔)の時
鈴木 貞子
私は、受難劇2020(仙台)の悪魔の声、のお誘いをうけ、得るものがあるとの思いで参加を決めた。(今コロナ禍で延期となっている。)
そもそも受難劇の始まりは、17世紀1633年、ドイツのオーバーアマガウ村の人々が、ペスト退散を願い、終焉したなら10年毎に全村民でキリスト受難劇をしてお祝いすると誓願した。翌年村から一人の死者も出さずに終わったので「祝祭、オーバーアマガウ受難劇」が始まったといわれている。
私の劇の担当部分は、イエスの40日の荒野の誘惑の場面とユダの裏切りをそそのかすところである。聖書では悪魔を擬人化し、心の中に誘い忍び込む様子をわかりやすく描いているように思う。
イエス・キリストは人として生まれ、人間の内から出てくる罪の声や最限のない欲望ととことん戦われた。(つまり生まれながらの罪(誘惑)の苦しみを味わわれた。人間は、神に似せて造られた故に、神(善)を強く求める一方人類始祖の罪(責任転嫁から殺人に至るまでの罪)の種=原罪を抱えている。
この二面性に生きている我々は、見・聞きの瞬間、湧きだす誘惑・罪の意識・・・まるで悪魔がささやくような、メトロノームのような内なる意識の世界である。こわい現実だと思っている。
旧約聖書サムエル記12章、ダビデが預言者ナタンから「それはあなただ」と罪を指摘される。他人を裁こうとする目線は、実は自分のことを指しているといわれたのである。
現在、人種差別問題をみても、自分はしていないと思っていても、100%差別意識はないのかと考えれば考えるほど、苦しく辛くなってくる。
ユダは十字架上のイエスの死を知り、我に返って土地と金を投げ捨て自殺した。また、ペテロも、鶏が鳴く前にイエスを否定するといわれていたのに、イエスを三度、知らないと言い、鶏の鳴き声を聞き、我に返り、泣きくずれてしまう。イエスのエルサレム入場の時、「ホサナ・ホサナ」と喜び迎えた群衆は、いつのまにかヘロデ王やローマ司政官の前で、「十字架につけよ」と叫んでいる。烏合の衆、付和雷同。しかし、その名におのれもいたかもしれない(!)と思う。己の中にある罪、いつのまにか忍び込む罪はおそろしいと思う。綱渡りのような不安な苦しい心の内や、矛盾した自己は全く恥ずかしい。このままで生きていていていいのだろうか。
しかし、耳を澄ませば、大きく何度も「私」を呼んでいる声がある。「そのままでいい。あなたの苦しみ、わかっているから。」と・・・ その声に、また、めぐりあいたいと願っている。
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